2009.06.22 Monday
誰かのための日記-026-東京
◆去る月の初めに東京へいってきた。丸10日間の旅である。旅の目的は数少ない。むしろ人生の課題が山積している状況のなかの上京。変な話なのだが、こちらでまとまらない考えをゆっくりとしたスケジュールの旅先で確実に結論づけようという目論見であった。
◆なにせ東京はひとが多かった。中野の商店街ですらすでに心斎橋筋商店街より栄えている。よくテレビでやる寂れた商店街のドキュメンタリーでは「特色をつくらないと」「イベントをしないと」という議論になったりするのだが、結局、その街のひとが減ってしまうといかんともしがたいのだろう。個人的にこれを、ある種のメタとして考えている。しかしながら特別街に特徴があるとも思えなかったのも事実で、街がひとをつくっているのではなく、やはり、ひとが街をつくっているのだと思った次第である。それにともない、地方都市との単純な比較として、東京に経済も政治も文化も集まっていることは、素朴な違和感として残る。そのままいくのかと。
◆【新青年】公演以降、代表の草壁カゲロヲ氏の活動休止を受け、しみじみと思い続けている。もう2年が過ぎようとしている。僕は演出家である。思っているだけではなにも進まない。ひとを集めたり、舞台のイメージを語らねば進まないのである。『表現』という意味では進めなくともよい。義務でもなんでもないのだから。しかし、一方の『生活』という面でも長年舞台に自己没我していたため、停滞している。なかなか人生とは難しいものだ。一生懸命やっても仕方ないことが多いのである。かなめはバランスなのだろう。昔からの知人・友人に会うと、驚くほど時間が過ぎてしまったことに気付かされる。たった10数年の年月でそのひとがまるで別人のように感じるのだ。ときおり自分が『天然色の化石』になってしまったように思い、呆然と立ちすくんでしまう。
◆政治の世界では世襲問題が議題に上がっているようだ。僕は以前より、とても大事な問題だと思って、ピラミッドの最底辺の僕の意見はまるで響かないのだが、近しいひとには様々、申し上げていた。僕は単純に『親族の地盤を継いではいけない(選挙区を代えるべき)』とだけ考える。これは職業選択の自由の問題をクリアした上で、本質的な公正であるべき選挙を実施するためである。政治家には政治家の実力が必要で、それが2世であろうが3世であろうがその実力があるなら納税者にとって有益である。それが実力にかかわらず、地盤をただ漫然と引き継ぐことによって、あるいはその名前だけで、他の立候補者よりも集票が有利に働くのが問題なのだ。これは投票者の問題ともいえる。ちなみに2世3世議員は血脈を継いで優秀な政治家になりやすい、という意見のひともいたのだが、僕はそれは非常に疑っている。たとえば実力を重視するスポーツ界を例にとる。現在、日本の衆議院議員の5割強が世襲議員だといわれているが、プロ野球界のなかで2世の選手がどれだけいるか?を考えると首をひねらざるをえない。もちろん、プロ野球界のなかにもごく少数の2世選手はいるが、比率が違いすぎるとは思いますまいか。父親とおなじ職業を希望しているかどうか、など統計の取りようもないので、これは私見に過ぎずただの印象である。基本的に2世議員だろうがなんら問題はない。むしろ大事なのは、プロ野球選手あるいは政治家の息子(政治の場合は娘でもよいのだが)として生まれ、おなじ職業に就こうとするときのプロセス。競争の厳しさへの公平性である。その選挙区で、よりよい政策・理念・実行力がある人物が当選して欲しいのだ。むしろ社会全体が世襲社会であっても、少なくとも政治家だけは選良であって欲しいのだ。
◆と、ながなが書いてみた。世襲議員のことについて考えたのは3年ほど前かであろうか。僕はそのとき孔子の本を読んでいた。
「先生がもっとも嫌いな人物とはどのようなものでしょう?」と弟子。
「先祖代々の跡目を継いで自分ではなんの努力もしていないのに安全な場所から、夢をもって努力してもなかなか芽のでない若者を嘲り笑うような人物が、わたしは心底嫌いだ」と子は答えた。(僕の意訳である)
3年前、この文章を読んでなぜか涙がにじんだ。そしてテレビのニュースに映る傲慢な政治家の顔を見たのだ。
◆そして、なぜ僕は東京の旅日記なのに世襲議員問題をながながとりあげるのか?それは10日間の旅で『世襲議員が減らなければ東京の一極集中は続く』というマイ理屈を発見したからである。だって地盤がどうのこうのといいながら実は彼らは生まれてこのかたずっと東京暮らし。東京のおぼっちゃまなのだ。東京大好きな世襲議員が経済も政治も東京から引き離すわけがない。『地方分権』なんて地方出身の議員しか真面目に取り組んでいないのが実情。そもそも世襲議員は若い頃から知り合いだから結託してる。地方から血脈なく頑張って当選したひとで、のし上がってくるひとたちはやがてどこかで足をすくわれる。世襲議員は結託して世襲議員コミュニティでないひとの頭を叩く。仲間外れごっこは世の必定である。槐より始めよ、という言葉もある。現代日本の社会構造が封建社会でないということを示すべきは、まず政治家ではないだろうか。
◆嗚呼、しかし、人生の問題が山積の、このちっぽけな僕の、東京でまとめた考えの結論が、まさかの『世襲議員問題について』だとはっ!天の啓示の思し召しと受け入れ、僕はある種のメタとして、今後、無理やり参考にしていくしかない、そう思った次第である。
◆東京では黒テントの初日で忙しいのに付き合ってくれたA君、お寿司をごちそうしてくれた永遠の美少女Mさん、に感謝。グラインダーマンのT氏は上野を案内してくださり家にも泊めていただいた。Nさん、G君、G夫妻、酒うまかったね。そして友人H君にとりわけお世話になった。H君には僕の予定の破れを全部フォローしていただき大変迷惑をかけた。新たな一歩を踏み出そうとする『天然色の化石』は深く感謝する。そのことを末尾において、旅の報告としたい。
◆なにせ東京はひとが多かった。中野の商店街ですらすでに心斎橋筋商店街より栄えている。よくテレビでやる寂れた商店街のドキュメンタリーでは「特色をつくらないと」「イベントをしないと」という議論になったりするのだが、結局、その街のひとが減ってしまうといかんともしがたいのだろう。個人的にこれを、ある種のメタとして考えている。しかしながら特別街に特徴があるとも思えなかったのも事実で、街がひとをつくっているのではなく、やはり、ひとが街をつくっているのだと思った次第である。それにともない、地方都市との単純な比較として、東京に経済も政治も文化も集まっていることは、素朴な違和感として残る。そのままいくのかと。
◆【新青年】公演以降、代表の草壁カゲロヲ氏の活動休止を受け、しみじみと思い続けている。もう2年が過ぎようとしている。僕は演出家である。思っているだけではなにも進まない。ひとを集めたり、舞台のイメージを語らねば進まないのである。『表現』という意味では進めなくともよい。義務でもなんでもないのだから。しかし、一方の『生活』という面でも長年舞台に自己没我していたため、停滞している。なかなか人生とは難しいものだ。一生懸命やっても仕方ないことが多いのである。かなめはバランスなのだろう。昔からの知人・友人に会うと、驚くほど時間が過ぎてしまったことに気付かされる。たった10数年の年月でそのひとがまるで別人のように感じるのだ。ときおり自分が『天然色の化石』になってしまったように思い、呆然と立ちすくんでしまう。
◆政治の世界では世襲問題が議題に上がっているようだ。僕は以前より、とても大事な問題だと思って、ピラミッドの最底辺の僕の意見はまるで響かないのだが、近しいひとには様々、申し上げていた。僕は単純に『親族の地盤を継いではいけない(選挙区を代えるべき)』とだけ考える。これは職業選択の自由の問題をクリアした上で、本質的な公正であるべき選挙を実施するためである。政治家には政治家の実力が必要で、それが2世であろうが3世であろうがその実力があるなら納税者にとって有益である。それが実力にかかわらず、地盤をただ漫然と引き継ぐことによって、あるいはその名前だけで、他の立候補者よりも集票が有利に働くのが問題なのだ。これは投票者の問題ともいえる。ちなみに2世3世議員は血脈を継いで優秀な政治家になりやすい、という意見のひともいたのだが、僕はそれは非常に疑っている。たとえば実力を重視するスポーツ界を例にとる。現在、日本の衆議院議員の5割強が世襲議員だといわれているが、プロ野球界のなかで2世の選手がどれだけいるか?を考えると首をひねらざるをえない。もちろん、プロ野球界のなかにもごく少数の2世選手はいるが、比率が違いすぎるとは思いますまいか。父親とおなじ職業を希望しているかどうか、など統計の取りようもないので、これは私見に過ぎずただの印象である。基本的に2世議員だろうがなんら問題はない。むしろ大事なのは、プロ野球選手あるいは政治家の息子(政治の場合は娘でもよいのだが)として生まれ、おなじ職業に就こうとするときのプロセス。競争の厳しさへの公平性である。その選挙区で、よりよい政策・理念・実行力がある人物が当選して欲しいのだ。むしろ社会全体が世襲社会であっても、少なくとも政治家だけは選良であって欲しいのだ。
◆と、ながなが書いてみた。世襲議員のことについて考えたのは3年ほど前かであろうか。僕はそのとき孔子の本を読んでいた。
「先生がもっとも嫌いな人物とはどのようなものでしょう?」と弟子。
「先祖代々の跡目を継いで自分ではなんの努力もしていないのに安全な場所から、夢をもって努力してもなかなか芽のでない若者を嘲り笑うような人物が、わたしは心底嫌いだ」と子は答えた。(僕の意訳である)
3年前、この文章を読んでなぜか涙がにじんだ。そしてテレビのニュースに映る傲慢な政治家の顔を見たのだ。
◆そして、なぜ僕は東京の旅日記なのに世襲議員問題をながながとりあげるのか?それは10日間の旅で『世襲議員が減らなければ東京の一極集中は続く』というマイ理屈を発見したからである。だって地盤がどうのこうのといいながら実は彼らは生まれてこのかたずっと東京暮らし。東京のおぼっちゃまなのだ。東京大好きな世襲議員が経済も政治も東京から引き離すわけがない。『地方分権』なんて地方出身の議員しか真面目に取り組んでいないのが実情。そもそも世襲議員は若い頃から知り合いだから結託してる。地方から血脈なく頑張って当選したひとで、のし上がってくるひとたちはやがてどこかで足をすくわれる。世襲議員は結託して世襲議員コミュニティでないひとの頭を叩く。仲間外れごっこは世の必定である。槐より始めよ、という言葉もある。現代日本の社会構造が封建社会でないということを示すべきは、まず政治家ではないだろうか。
◆嗚呼、しかし、人生の問題が山積の、このちっぽけな僕の、東京でまとめた考えの結論が、まさかの『世襲議員問題について』だとはっ!天の啓示の思し召しと受け入れ、僕はある種のメタとして、今後、無理やり参考にしていくしかない、そう思った次第である。
◆東京では黒テントの初日で忙しいのに付き合ってくれたA君、お寿司をごちそうしてくれた永遠の美少女Mさん、に感謝。グラインダーマンのT氏は上野を案内してくださり家にも泊めていただいた。Nさん、G君、G夫妻、酒うまかったね。そして友人H君にとりわけお世話になった。H君には僕の予定の破れを全部フォローしていただき大変迷惑をかけた。新たな一歩を踏み出そうとする『天然色の化石』は深く感謝する。そのことを末尾において、旅の報告としたい。