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雑記-16-タクラダ猫の憂鬱
『タクラダ』とは、田蔵田と書き、ジャコウに似たケモノ。『タクラダ猫の隣歩き』ということわざがある。その意は、ジャコウならその独特の芳香を得んがため捕えるが、似ているだけで芳香を持たないタクラダは、ただ殺されるだけで棄て置かれてしまう、つまり『サッパリ役に立たない』ということ。しかし『タクラダ』の本意は他にあるようだ。

頃日に思う。『正しい生活』とは、だ。人類が、猿かなにか解らない頃から、ジンカンに一貫するのは、アブレモノ(例えるときりがないが簡潔にいうと『税金を払わぬものたち』や『生産性のないものたち』が代表的アブレ)は社会化される、ということだろう。当たり前だか、初めの猿かなにかの頃は、この世に社会人はゼロだったのだから、ジンカンの社会化と、ひとの社会化は同時進行であった。現在もそれは途切れることなく続行中と思われる。社会は変化するのだから相対的に大量のアブレモノが発生する。解り難いなら『携帯電話を持つ』という社会化の例を引けば解り良い。僕は自分自身、アブレモノかどうか測りかねているのだが、神経心理ではここ十数年、社会化とデカダンスで攻めぎ合っている。人間は『生物的要素の担保により社会化を義務附けられている』と思う。そういう意味で、自然発生的、あるいは人為的な、包括的複合体への関係性について、僕は日々是沈思黙考の次第、である。

して『タクラダ』である。昔、村にいた生まれつき愚かなひとを、神のお使いだ、と村人は大事にしたそうである。そのようなひとに与える田を『タクラ田』と呼んだらしい。西洋にもそんな風習があることは知っていた。「オタカラ」と隠語にモジリ、そのひとをバカにしつつ(純然な佳話でない)も、情を持って接していたそうな。時間よ止まれ!嗚呼、マレビトよ!きみは美しい。なんてねっ。ちなみに『タクラダ猫』はシナの故事からの出典であるが、ただの冗談である。漢語にも冗談があるとミジンも思わず昔の日本人が意味を取り違えたに候。
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