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あとさき日記-5-愚眉
◇ぼくには戦争に関して思想がない。戦記、回顧録など出征したひとびとの書物を読んでいると、意外なことにかれらもまた戦争に関して思想めいたことは書かない。日々是々非々、できうることはすべて起る。そこに感情がついてまわる。思想はないが、個性という名の道義がそこにある。

◇仮にひとりの人間を考える。かれを、衣食住の足りた2005年の日本におき、またもう一方でおなじ人間を1943年〜1945年のニューギニア(今回の作品で重要な地域)の過酷な戦地におく。前述の書物にある窮極の意味としてぼくが感じたのは「人間どこにいてもかわらない」というメッセージである。このままでは誤解を招くので言葉を加える。

◇ある戦場で、僧籍に身をおくものが悪鬼の如く、死体を踏みにじり蹴飛ばしていたという。おそらく日本ではその地域の名士であり、仏の道を説き尊敬をあつめていただろう。それは結局、どちらが裏でも表でもなく、善や悪という枠をすっぱりとりはらえば、前者は赤裸々な人間性の本質をつき、後者は社会性の偽装をつく。しかしそれはあくまで偽装であり、戦争という目的への合理性に人間への非合理が重複する場にあっては、奪衣婆に身ぐるみ剥がされる虚飾、「文明社会」という修飾にすぎない。

◇しかしだからこそ「人間どこにいてもかわらない」のだ。「文明社会」に身をおく限り、本性にある悪鬼は陰にひそみまみえることはない。それらは表裏でもなく善悪でもなく、人間という業がもたされた可能性の広大な振り幅であり、現象における矛盾の皮膜を破り去る行為・行動選択の難しさをみる。それは「平和」や「良心」という言葉では空転する。なぜなら戦場にあっても平和を享受してようとも、死を賭してさえ突き通す自我があるか、また突き通せるだけの自我であるかどうか、が基となるからだ。だから、かような比較はじつは無意味である。自分におきかえることが大事なことだ。愛するひとに罵声を浴びせた自分自身を後悔することが必要なのだ。たとえ、状況に適応した罵声であっても、愛情はかわらないのだから。

◇ときおり映画などで観る描写、怒りや暴力に共感するのは、心中にひそみ、ともすればあらざるなき戦場であらわれる我が悪鬼の姿なのかもしれず、頭頂へ考えが蹂躙する。ぼくは眉をひそめて想像する。自分というカラを測る。愚かしいのは、何冊兵士が直裁に伝える書物を読んでも、その拘泥の戦場が恐ろしく、不気味に感じて、いまはないことであると安楽して、その思いをくちにだすかわりに、ずるずる、冷めたコーヒーをすする音をたてている、なんだかわかったような顔をするぼくの間抜けさである。

◇剃っては伸びるじょりじょりの眉をひそめても、わからぬことばかり。今日も『en naimed』という後悔の呪文を唱えて、眠ろう。
| あとさき日記 | 04:37 | comments(0) | trackbacks(1) |
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