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改造日記-11-展覧会にいってきた
◇イスラム社会のデモがニュースで流れている。くだんの風刺画騒動である。そこで『表現の自由』のことを考えていると、あるエピソードを思い出した。

◇浜村淳という司会業を営むおっさんがいる。関西では毎朝「ありがとう」ということで有名である。個人的に関西限定の『朝ズバ!』をするならこのおっさんしかいないと強く推薦する。このひとはもともと新聞記者志望であったそうで、ある新聞社の入社試験を受けたという。その論文試験のテーマは『「ペンは剣より強し」について書きなさい』で、浜村青年は真面目にその事例などあげつつ書いたそうな。しかし結果は不採用。訝しく思った浜村青年は、なぜ不採用だったのか尋ねたらしい。するとその人事担当者は「ペンは剣より弱い、という結論を書いたひとを採用したんや」と語ったそうだ。戦争が終わり、新聞界も翼賛的言論統制に加担した反省があったのだと思う。浜村青年は常識というものを疑わなければならないという意味で「眼から鱗が落ちた」らしい。なぜか今回の風刺画騒動に、この話を思った。

◇西洋の場合、宗教や王制など権威・権力との闘争で自由を勝ち取ったという自負心があるのだろう。だからフランスの漫画雑誌が新たなイスラム社会への風刺画を掲載するとか、過剰な応酬をしているように思う。

◇風刺画自体は西洋社会のジョークという意味でしかないと思う。イギリスなんて国営のBBCのなかでエリザベス女王が笑いのネタにされる。ぼくは単純に例の風刺画を、なるほどな、と思った。日本に住むぼくの価値観に限って、その絵は普通に風刺画であって、それ自体はモンティパイソンの1000分の1くらいのやんわりした刺激である。結局、イスラム教が偶像崇拝を禁止しているということ(原初ではキリスト教も仏教も禁止してたと思うのだけれど)がこれほどの禁忌であったのか、というのを誤ったのだと思う。結果的にその記事の狙いは、こんな大騒動を起こすつもりではなかったのだろうから。

◇つい60年前まで日本でも天皇はそういう扱いであったと聞く。ラジオの声はカットされていたというし、写真は顔を隠されていたという(そういう意味でも玉音放送は衝撃であったらしい。だれも声を聴いたことがないうえに恭しい宮中の言葉使いであったので、本当に天皇か、終戦を告げるということも含め、放送の真贋がわからなかったそうだ)。その時代に他国が天皇の肖像をそういうやり方で使用すれば、日本人は怒り狂ったであろうことは自明で、想像するに、各地のイスラムコミュニティーのリアクションは現象としてよくわかる。

◇西洋の言論界ではどのような議論になっているのかわからないが、ぼくなりに考えた。

◇この風刺画騒動は『表現の自由』『言論の自由』というモノサシでものごとをはかるべきでない。西洋社会がイスラム社会を『権威・権力』として認知して監視している意味ならともかく、そういう対象でもあるまい。むしろ、イスラム社会が西洋社会を『権威・権力』と思っているし実際おさえつけられ、踏みつけられている。だから彼らが「西洋人にいいようにされまい」とあらん限りの声でシュプレヒコールをあげているのがわからんのだろうか。
どこの文化圏でもタブーはある。それをぶつけ合うことが『自由』の最終形であるならば、あまりにシニックで、過去の思想家は卒倒して最後に笑うだろう。「自由は喧嘩の理由でしかなかった」わけで。

◇巨大すぎてわかりにくいが、総体として西洋全体がすでに『権威・権力』だ。しかし政治・経済の弱い国々の側が健全に西洋社会を『表現の自由』『言論の自由』をもって風刺することは即、死活問題となる。キューバや北朝鮮を擁護するわけではなくて、たとえば国単位で考えるなら、一国が我を張るというのはああいう種類の苦しさをともなう。それも民衆が。そういう時代を持っている日本が、なぜ積極的にあいだにはいってやらんのかが、ぼくには不明である。

◇なんせ、そういうところ西洋人は傲慢である。そして日本は利己的(このことについては面白い文章を読んで、いろいろ思うところがあった。また後日書く)。たとえば冬季オリンピックである。こんな絵に描いたような南北問題そのままの、白人による白人のためのオリンピックをみてなにが嬉しいんだろう。どう考えてもなかば地域選別という意味のアパルトヘイト(人種隔離)だと思う。権利は与えるがあとは努力しだいということか。そもそも五大陸があたりまえに競技しないスポーツばかり集めてオリンピックもないだろう。あの五つの輪っかはただのお飾りか。参考までに。〜オリンピック憲章、7:オリンピック・ムーブメントの活動は、結び合う5つの輪に象徴されるとおり普遍且つ恒久であり、五大陸にまたがるものである。その頂点に立つのが世界中の競技者を一堂にあつめて開催される偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会である〜。冬季オリンピックじゃなくただのウインタースポーツ競技会でいいと思うのだが。

◇と腹が立ってきたので、別の話にする。

◇京都市美術館で開催されている嵯峨美の卒業制作展にいってきた。ロヲ=タァル=ヴォガ【Ato-Saki】公演で美術スタッフだった、Chiemixこと平本嬢と江草嬢の展示を楽しみにむかった。

◇むっと、若人たちの熱気につつまれた館内にやや動揺。油絵から日本画、版画へ進み、観光デザイン学科の部屋へ。ぼくの勝手ながら嵯峨美は絵が良いイメージがあって「えっこれは?」といったものもなく「いい絵やなぁ」なんてひとりごちながら順路を進んだ。ぼくは「いまの画壇は」とか「この本歌取りは」など批評性に関わる事柄はまったく知らず、単なる素人としてしかみれない。本展覧会でなら、メディアアートの事情がすこしわかったくらい(無論、タカがしれてるのだが)。

◇Chiemixの作品をみた。【invitation mask〜コミュニケーションのものさし〜】と題されている。実感として彼女らしい題材の選択に思えた。透明のシートに目許をおおう舞踏会マスクのデザインがある。それが無数にプリントしてある。ラインが繊細だ。いちまい一枚、ジャストサイズのビニールにいれてあり、いろいろなものが同封されている。文字が書いているものもあるし、布地がはいっていたりもする。さまざまなのだ。その作品が20点ほどあった。「マスクをつけているその袋が擬人的な存在だとすれば、その中身は個性であろう」などと考えていたら、なんとなく社会への招待状のように思えてきた。「社会にでるときはこのマスクをつけてください」と送られてきたような。【Ato-Saki】公演でラストシーンに南洋のマスクを全員につけさせた。直接の意味とは違うのだが、もう一方の意味でぼくは、主人公に『すべてを剥ぎ取った、あるいは剥ぎ取られた存在』のディレクションをした。すでに社会性のマスクをつけていない存在だと考えた。文明のさなかに暮らすほかの人物はその主人公とシンクロしたときだけ、そのマスクをはずせるような気がしたのだ。ぼくは自分の勝手な作品解釈のなかで、Chiemixとシンクロしたのであった。

◇江草嬢の作品を続けてみた。それはChiemix作品の隣にあったからである。おなじクラスとは聞いていたが、具現化するとこれがおなじクラスということなのだと感心。作品はこれまた面白いものであった。題は【文書編集の実験〜人体器官編〜】。これはブック形式の作品である。ページごとに内臓の器官名がピックアップされている。そして演劇バカには定番の『外郎売』のテキスト(これが面白いアイデア!)を解体して再編し、一種の絵文字のようにページレイアウトしている。文字の大きさを変化させ、重ねることさえいとわず構成することによって、遠近さえしょうずる。そしてピックアップされた器官をイメージしてレイアウトする。テキストが『外郎売』でレイアウトデザインとはまったく関係がないので(ぼくにとっては)読む必要もなく、それでいて、文字が絵として成立する律のよい文章であるため、眼に心地よい。眼に青葉、山ホトトギス、江草『外郎売』(字余り!)というところ。将棋の羽生善治四冠が専門誌のインタビューでこういう話をしていた。「良い将棋というのはすぐにわかるんですよ。盤面をパッとみて、綺麗だな、って感じられたらそれは、まず間違えなく良い将棋だったりするんです」(近藤の要約)と。そういう意味で江草嬢の作品は解釈を必要としないのである。

◇ぼくは静かな興奮を覚えて本人たちに連絡もとらず美術館をひとまわりし退館した。そして近代美術館の【ドイツ写真の現在】にもいきたかったが、小林美香さんのレクチャーも終わってしまっていたので、気になっていた京都市美術館・別館で開催されている【日本の子ども60年】にいくことにした。

◇あまりにもいたいけで可愛らしい子どもの写真たち、ひとりでみてたら「じいん」と眼頭が熱くなりそうな写真もある。やっぱりぼくは子どもをみると堪らない気持ちになる。好きなのかもしれない。しかし現代に進むにつれて、チョイスしたひとの単純な意図がみえてゲンナリした。あと昔の写真は丁寧にひとりづつ丹念に存在を愛でて撮影されているが、現代の写真に進むと撮影者の被写体に対する愛が希薄なことに気づく。撮影者もまた『日本の子ども』ということか。といいつつも大満足してしまった自分がいて、ぼくもまた『日本の子ども』なのだ(ひつこいっ!)。

◇阪急京都線下りの車中。週刊文春を読む。椎名誠氏の連載【風まかせ赤マント】で笑ってしまう。『私の嫌いな10の人びと(新潮社:中島義道)』という本の紹介をしていた。中島氏は哲学者らしい。椎名氏は「絶対にお目にかかりたくないのだが大ファン」という。この本で、嫌いなひとの特性を10挙げているのだが、ここで覚えず吹いてしまった。
「笑顔の絶えないひと
「常に感謝の気持ちを忘れないひと
「みんなの喜ぶ顔が見たいひと
「いつも前向きに生きているひと
「自分の仕事に、誇り、をもっているひと
「けじめ、を大切にするひと
「喧嘩が起こるとすぐ止めようとするひと
「物事をはっきり言わないひと
「おれバカだから、と言うひと
「わが人生に悔いはない、と思っているひと
ぼくは8年ほどまえから舞台をはじめたのだが、そりゃもう生意気で生意気でどうしようもなかった。叩かれて叩かれて、それでもアッケラカンと口笛を吹いていたもんだ。やさしいところもなくはなかったが、ぼくが自分の親として「あなたが不幸になるのをだまって見過ごすわけにはいきません」と連れてきた彼女にいいたいくらい、まったくふざけた男であった(これは飽くまでたとえであり、実際のぼくはいまでもだれにも自信を持ってお薦めしない)。こんなぼくでもいつのまにか、特筆すべき事件もないのに良くも悪くも変化してきた。前向きに生きてみたり、韜晦に落ちてみたり、喜ぶ顔をみて嬉しくなったりもする。うえの条件、読んでみて、ぼくもこういうひと嫌だ。でも、自分に課してきたのは上記のようなこと。「〜みたいなひとになりたい」と思ってきたのは、これまた上記のようなことじゃなかったかっ!嫌だなぁ、無自覚は。

◇ぼくはなにかミッテラ筋に大切なものを落としてきたようだ。じゃあ、明日拾いにいこう。嗚呼、呑む理由は石油より埋蔵量が多い。

◇書き忘れていたが、『自由』と名づくことはすべて、明文なきルールのなかでおこなわれるのが最善だと思う。良心も悪心もひっくるめて『自由』なんだから、それを行使して「やりすぎた、悪かった」と思ったなら、謝るしかない。肝は「やりすぎた、悪かった」と思えるあたりまえの人間であるかどうかなんだと思う。

◇ぼくも謝りたいひとが大勢いる。『自由』なんて言葉も簡単に使っていた。もう会えないひとも多い。思い返し、その時を逸したことに慚愧の念、今日もおそらく明日も、堪えず、だ。
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